Les Cinq Sens

(住宅特集‘94 6月号)



 建築は人間の五感と歴史の産物である。 人が心地よいと感ずる環境は測定ができても、その人の記憶や潜在意識に由来する感覚的な面は今まで個人的なものとして片づけられてきた。しかし、ヒトの遺伝子まで解析しようという時代に、脳のさまざまな働きから生まれる我々の感性のインターフェイスにもっと注意をはらう必要がある。加工された刺激によってバラバラにされつつある現代人の五感を脳の情報処理のなかでいかにバランスさせるかは、今日の課題であるともいえようか。

住まうという本能に根ざした住宅の場合は、住もうとする場の人と土地に刻まれた歴史が本来は主役となる。しかし港北ニュータウンの仮換地が造成工事中のために敷地図のみで着手された設計は、約10m角の区画がズラリとならぶこの地域の、過去と断絶して決してバラ色とも思えない未来像が出発点となった。

住まい手は音楽家夫妻と子供ひとり。中世からバロックまで活躍し一時は忘れ去られた楽器を演奏し製作もおこなう西洋史を体現している人たち、その仲間や弟子の出入りも大変に多い。華やかなステージ以外の生活の場のすべてがここに必要であるとも言える。こうしたミクロコスモスを成立させるためには、五感にまっとうなプログラムが不可欠であり、気積優先で採光のある地下音楽室、屋内屋外が半々の食堂、空に最も近い寝室などは、極小の敷地から半ば必然のように「田の字」のRC壁と独立スラブによって空間構成された。音楽室は音響と遮音、食堂には味覚と香り、寝室とバルコニーでは肌で感じる光と風・・それらは分節されることなく感覚として総合的にネットワークされていなければならない。

この五感のプログラミングに必須なのが人の気配を集約し「田の字」平面で対角する二つのパティオである。一つは玄関ドアを外部との接点としてすべての部屋とドアでつながる閉ざされ公的な、もう一つは電動ブラインドシャッターによって切り取られ二段のバルコニーで各室の窓が面する開かれ私的な。この性格を異にする二つのパティオは、五感のコミュニケーションを目的とし、人や物は全館を自由に往来する一方でインティメイトなものは相互の部屋に気配として伝わり、集いの賑わいは必要に応じて前面道路までを取り込む事も意図して、この建物の核をなしている。

さて、この小さな家と家族は、未だ見えてこない周辺環境や隣人と今後どのような接点を持っていくことになるのか?南と西のわずかな外部空間と、四方の立面と開口はそれを問いかけてる。音楽家の日常が弛みない修練と広い交流による人間形成にあるとすれば、誰よりも解放された精神を保つために必要な感性を、この密集した社会の中で大切にしていかなければならない。そして時代は明らかに、芸術家のみならずすべての人がそれを必要とするようになるであろう事を示している。

  人間の五感と脳に潜在するあらゆる要素が、新たな知的創造に寄与する願いを込めて・・

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